言霊

2014年11月19日

f396dae1.jpg「 凡そ此の凡夫の上人
蟻、螻、犬、鳥、田夫、野人に至るまで
皆是仏性を備え甚深の法を行ずる者也
 賤しみ思うべからず 」
         (明恵上人)



文化の日(11月3日)の前日NHKで放映された

「“奇想の絵巻”誕生のなぞ~鳥獣戯画~」

が面白かった

130年ぶり4年がかりで大修復された鳥獣戯画の
修復後の姿が紹介され、科学の眼で解明された
新発見や謎解きとともに解説されて興味深い番組でした

鳥獣戯画の作者は平安時代後期の
鳥羽僧正と言われてきましたが、実は
そうではなく無名の複数の絵師によって、
ただの戯れ絵として描かれたのではなかろうか
と番組では大胆な推理がなされていました

鳥羽僧正のようなプロの絵師ならば
決して選ばない質の悪い日用品の紙や、
再利用された紙に絵が描かれていたからです

今回初めて知りましたが、絵巻は甲巻、
乙巻、丙巻、丁巻の四巻からなり
全長44㍍もの長さになる大作でした!

甲巻には私たちになじみ深い兎や猿や蛙が、
乙巻には馬や牛、麒麟や象や龍が、
丙巻は別の絵師による動物や人間が、
最後の丁巻には老若男女様々の人々が登場します

この四巻の絵巻に共通するのは、ご存知のように
のびのびとした線と勢いある筆致で動物や
人間が描かれていること、しかも登場人物
(動物)が愉快な仕草や表情で今にも
絵巻から飛び出してきそうなくらい躍動感が
あってイキイキとしていることです

番組の最後はこの不思議な絵巻が何故
800年の長きに渡って守り継がれてきたのか
という謎にも迫っていました

京都栂尾の高山寺は明恵上人が開基の
寺ですが、所蔵の国宝でもある上人の肖像画

「明恵上人樹上坐禅図」

が持ち出され、その図中上人が大きく描かれず
まわりの自然が強調されていること、
また木像「子犬」をいつもそばに置いていた
人となりから、上人が人間だけでなく
何にも執われない自然、生きとし生けるものを
等しく大事にした上人であったことが語られます

この上人の遺志を継いで高山寺が
「鳥獣戯画」を本尊のように守り続けてきた
のではということなのです

これが真相だったのかどうかはさて置き、
名も知らぬ多くの人びとの尽力のお陰で
童心を蘇らせてくれる絵巻を現代の
私たちが見ることが出来るのは幸運です

いま京都で開催中の
「国宝鳥獣戯画と高山寺」展ですが
東京に来たときに観に行くのが今から楽しみです


今日も一日
みんな??
笑って
微笑んで

追記:

冒頭の文章は華厳の教えを弟子らに
語り教えたと言われる明恵上人の言葉です


2014年11月17日

9f2953b5.jpg寒い季節になると
こんなにも太陽の光が
ありがたいものかと
日溜まりにいるだけで
しみじみ感じてしまう
今日この頃です

朝起きて
太陽にむかって
手をあわせ
拝み
自然とともにあった
昔の人びとの
気持ちが
わかる気がします

わたしも
素直な純粋な
心持ちになって
手をあわせ
太陽を
拝みます

ああ、
なんと気分のいいことか
太陽は
生きとし生ける
すべての上に
さんさんと輝き
カラダを温めてくれ
ココロを温めてくれる
ご馳走です


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで

追記:

たまたま読み返していた本に太陽が
引用されている一節がありました

語っているのはガンジー主義者であった
ヴィノーバ・バーヴェです

「「太陽は、完全に中立で超然としている」
  とヴィノーバは続けた。
  「太陽は管理したり支配したりしない。
  太陽は、ただ太陽だ。
  太陽の光の下で、あるものはためになる本を読み、
  あるものは取るに足らない本を読むかもしれない。
  あるものは隣人を助け、
  あるものは人を殺(あや)めるかもしれない。
  これらの行為の善悪は太陽のせいではない。

     (中略)

  太陽はいつも輝いているが、
  誰も太陽が働いていることには気づかない。
  太陽はすべてのものを行動させる。
  牛に草を食べさせ、鳥を鳴かせ、
  商人に店を開かせ、農民に畑を耕させる。
  だが、もし誰かが起きないで
  カーテンを開けなかったとしても、
  太陽は彼らを無理には起こさない。
  太陽は存在するだけで十分なのだ。
  太陽は完全に、
  行為するよりも存在するという状態にある。
  太陽は光を持っていいるのではない。
  太陽は光そのものだ。
  太陽は善を行うのではない。
  太陽は善そのものだ」

(『君あり、故に我あり』サティッシュ・クマール151頁)


ヴィノーバが説いているのは
あるがままであれということ
自分自身であれということです
物事の結果にこだわらず執着せず
ひたすら自分自身であればよい
と説いているのです

ありのままの“存在”であることが
あらゆる“行為”に優先するのです


2014年11月14日

99a72cb7.jpg「 波騒(なみざい)は世の常である。
  波にまかせて、泳ぎ上手に、
  雑魚(ざこ)は歌い雑魚は躍る。
  けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。
  水のふかさを。」

 (吉川英治全集18『宮本武蔵(四)』228頁より)


「朝のこない夜はない」が吉川英治の座右銘の
ひとつだということは以前から知っていましたが

つい最近、
この言葉が窮乏の中あった若かりし英治へ
送られていた母親からの手紙の最後に
いつも添えられていた言葉だったと、
ある人に教えられました

なるほど、
国民的作家であった英治にとっても母親の言葉は
言霊となり大きな支えであったのでしょう

余談になりますが、「朝のこない夜はない」と
ともに「夜のこない朝はない」という言葉も
対にして承知しておくべきだろうと
私は考えています

生まれくるものには必ず死が訪れ、
始まるものには必ず終わりがあるものですから


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで

追記:

冒頭の文章は武蔵が巌流佐々木小次郎を倒し、
止刀(とどめ)を刺さずに小舟で漕ぎ去ったあと、
綴られている物語『宮本武蔵』の結語です

私の好きな文章です!


2014年11月06日

345c410e.jpg再放送で視たNHK連続テレビ小説の

「ちりとてちん」(2007年)

がすっかり気に入った私はヒマを見つけては
DVDに収めた番組を最初から見直しては
何度も笑わせてもらっています

脚本家の藤本有紀さんは相当の落語通で
しかも落語の懐の深さを存分にテレビ小説に
取り入れて私達を笑わせそして泣かせてくれます


さて、
手持ち無沙汰な日が続いていたので
最近一挙に随分見なおして過ごしました

第47回目放送分で落語家に弟子入りした
主人公の和田喜代美の父正典が
彼女の兄弟子に若狭塗り箸を贈るときに、
正典の師匠でもあった祖父正太郎が喜代美に
残した言葉を紹介する場面があります

「 人間も箸と同(おんな)じや、
  研いで出てくるのは塗り重ねたもんだけや、
  一生懸命生きてさえおったら、
  悩んだことも、落ち込んだことも、
  綺麗な模様になって出てくる、
  お前がなりたい者(もん)になれる 」

祖父正太郎役の故米倉斉加年が
なんとも味わい深い福井訛りで語る
このくだりは繰り返し出てきますが
私のお気入りの台詞でもあります

どんなに恥ずかしい失敗だったとしても
どんなにつまらい失敗だったとしても
経験したすべてが本人の受け止め方次第で
いつかは“綺麗な模様”になって
輝き出すという素朴で健康な考えに
共感を覚えるからであります


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年11月03日

a61bc524.jpg「 雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラツテイル
  一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
  東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニワタシハナリタイ

  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如來
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩 」


今日、11月03日は文化の日ですが、
私が勝手に決めた“賢治の日”でもあります

日本で最も親しまれてきた詩「雨ニモマケズ」が
書かれた日だからです
1931年11月3日、賢治35歳のときと
詩(メモ)が残された手帳には記されています

誰もが知っている詩ですが、実は
手帳に書かれた最後の七行が捨象されて
流布してきました

詩は作者の意図から自由であり自在になって
構わないと私も考えますが

“ 南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如來
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩”

の部分なくしては法華経に深く帰依した
賢治の祈りであり戒であり覚悟であった
意図が伝わってこないと私は思います

この部分も含めて私は何度となく
この詩(メモ)を読んではそのたびに
賢治の生きる姿勢を学びなおします


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで