いのちの讃歌

2014年09月12日

e7266206.jpg「 あのとき、豆の梯子を見て、すぐとそのまま、
  どこまでも昇って行こうという気をおこしたのが、
  そもそもジャックの運の開けける初めだったのです。
  あれを、ただぼんやり、不思議だなあと思って眺めたなり、
  過ぎてしまえば、とりかえっこした牝牛めうしは、
  よし手に戻ることがあるにしても、あなたたちは、
  相変わらず貧乏で暮らさなければならない。
  だから、豆の木の梯子を登ったのが、
  取りも直さず、幸運の梯子を昇った訳なのだよ。」

    (『ジャックと豆の木』 楠山正雄訳 より)


地下鉄の竹橋駅を降りて神田錦町を
歩いていたとき、交差点にあるビルの前に
こんなオブジェが飾ってありました

遠くから眺めると

有り難い仏様の掌のようにも見えますし
不動明王の火炎光背のようにも
熊の足の裏の肉球のようにも
ドラゴンボールの悟空ののようにも

見えましたが。。。

近づいてみると

『 豊穣 七つの莢の豆 』(2003 池田政治)

と記されてありました

池田さんという造形作家の作品のようです

私の想像はすべて外れてしまいましたが
いずれも豊穣や豊さ、幸に関係しないでもない

これは当たらずとも遠からずだと私は
勝手に喜んではじっくり眺めなおしました


七つの豆には豊穣なる勢(ちから)強い
未来が詰まっています


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年08月25日

81246987.jpg「 ヤットサー ヤット ヤット
  一かけ 二かけ 三かけて
  四(し)かけた踊りはやめられぬ
  五かけ 六かけ 七かけて
  八(や)っぱり踊りはやめられぬ
  ヤットサー ヤット ヤット 」



野暮用あって先週末出かけていた
新高円寺でちょうどその日

「東京高円寺阿波おどり(第58回)」

の祭りがあることを知って用事を
済ませたあとしっかり楽しんできました

初めて見ましたが大勢の人出で祭りは
大盛り上がり、実に面白かった

パンフレットから少し紹介すると

参加している連(グループ)は
地元の高円寺からは29連、
はるばる徳島からが7連、
一般参加が71連、総勢107連

それぞれの連は

高張提灯(タカハリ)を先頭に、
女踊り(編笠、手甲、帯、おはしょり、下駄)、
男踊り(団扇、浴衣、法被、印籠、小袋、足袋)、
そして
お囃子(笛、大太鼓、締め太鼓、三味線、鉦)

が最後に続く構成になっています
女踊りと男踊りに混ざって子ども達も
大人顔負けの踊りを披露してくれます


私が見たわずかの連のなかでは

「天水連(徳島)」(正統派で美しかった!)
「天翔連(高円寺)」(まとまりがあった!)
「希望連(一般参加)」(障害者の方々が主役!)

が印象に残りました

ついつい私も“踊る阿呆”になって私も
参加したくなりました、ああ、楽しかった!


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで

追記:

特記しておきたいことがひとつあります

連の間に挟まってチームハピネネスという
集団が会場に出てくるゴミ回収をしていたこと

徳島出身の若者が始めた活動らしいですが
好感のもてるボランティア活動です


2014年08月19日

9748912c.jpg幼な子の寝顔をじっと眺めていたら
この顔は仏さまの顔そのものなんだと
いうことにハッと私は気がつきました

神の国は幼な子たちのものだと
確か聖書にも書いてありました

自我もまだ生まれていない幼な子は
自己も他己もないたったひとつの世界で
悠々といのちを輝かせています

不惑の年になったら自分の顔に責任を持て
と語った大統領がましたが不惑でなくても
顔には人の全てが顕れてくるものなのです

器量の良し悪しや美醜とは全く関係ない
“美しさ”が顔には宿っているのです


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年08月15日

0c210111.jpg「 老いゆくを
  罪と思わずは
  百日紅 」

   (句集『旅程』 横山白虹(はっこう) )



毎年夏になると近所の寺の山門の両脇に
植えられた百日紅の花を見にいくのが
私のひそかな楽しみになっています

山門の向かって右側の白の百日紅に比べると
左側の紅の百日紅が実に見事にのびのびと
枝を伸ばして開花する姿がまたいい

こぶこぶになった百日紅をよく見かけますが
私はのびのびと広がった樹の方がずっと
ずっと好きなのであります

年老いても
のびやかでありたい
みずみずしくありたい、
そしてたまには
華やかでありたい

と思いながら紅白の百日紅を私は眺めます


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年08月08日

47a1772d.jpg       【雲】

「 丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきだひら)の方までゆくんか 」

       (山村暮鳥)


いまどきのお年寄りや子どもは
(と言うだけでなくもちろん大人たちも)
いったい雲をながめて立ち止まったり
することがあるのでしょうか?

それも、うっとりと時間の過ぎゆくのを
すっかり忘れてしまうくらいに。。。

ゆうゆうとのんびりゆったりと流れゆく雲を
見つけるのはゆうゆうとのんびりした
心の持ち主だけです

そうでなければ、雲に話しかける余裕が
生まれることもありません

急ぐ心にはのんびりした気持がもともと
住まないから、この詩から見えてくる
世界がそもそも存在しないのです

雲でなくたって構わないから
人工物でない命のそばにいる安らぎを
私たちは忘れないでいたいものです


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで