2014年09月26日

f257d5e5.jpg「 あんたはどちらから? 」
「 私は四谷のお寺さんから 」
「 私は新宿 」
「 いつ亡くなったの? 」
「 私は宝暦(1751~1763年) 」
「 そうですか、ところでそちらさんは? 」
「 私は天慶(てんぎょう)(938~947年)の頃です 」
「 そりゃあ平将門(たいらのまさかお)の
  時代じゃないですか! 」
「 そうなんですよ 」
「 あんたまた古い仏さんですな 」
「 そうなんですよ、私もまさかこんなに
  長死にするとは思わなかった! 」


“鬼の平蔵・鬼平”と盗賊たちから恐れられた
長谷川平蔵は石川島を埋め立てたときに
江戸中の不用になった墓石(無縁墓など)を
集めて利用したそうです

この墓石のことが落語のネタに使われたと
中野東禅氏に教えてもらいました
(調べてみましたが、噺の題は不明)

冒頭の会話は集められた墓石たちの会話で
“長死に”がオチになっています

人が長生きするのもけっこう大変ですが
墓石が“長死に”するのもそれなりに
大変なことだというのが分かります

それにしても墓の問題は現代日本人にとって
身近で具体的な問題になりつつあるようです

私は仏教に帰依していますが正直に言って
自分の墓はいらないと考えています

「 人は死んで三日たてば、
  三百年前に死んだのと同然になる 」

山田風太郎の言葉が私は気に入っています
また、こうあって欲しいとも願っています

この世は生きているいる人達のために
あるのであって死に逝く者は黙して語らず
静かに消え去っていくのが理想なのだ

他人様(ひとさま)に強要はしませんが
私は常々こう思っています

ただ、やっかいなのは、墓(や葬式)は
死んだ者のためというよりも生きている者の
ためにあるという事実があることです

遺言にしたためる方法もありますが
残され者が悲しみを乗り越えるために
一番無理のない方法を選ぶという選択肢も
あっていいのではと思います

今日は彼岸最後の日(彼岸明け)と
いうことで書いてみました

南無(なーむ)


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


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