2014年10月

2014年10月31日

e7b04ba3.jpg「 仏教の西方浄土信仰がそうです。
  落日を拝んで浄土を想(おも)い、
  悟りに達する日想観(にっそうかん)も
  その一つです。
     (中略)
  これは西欧でも同様で、ケルト人の考えた
  楽土「常若(とこわか)の国(ティル・ナ・ノグ)」
  も西にある。
  ケルトの神話は、一年中果実が実り、
  人々はいつまでも若く美しい
  「常若の国」が、アイルランドの
  遥(はる)か西方にあると伝えています。」

(『ひらがなでよめばわかる日本語』中西進「ひがし にし」53~55頁より)



ハロウインなる行事がいまやバレンタインを
抜いて国内一番の売り上げになっているとの
報道がなされていました

商売にもメディアにも縁のない私には
猫も杓子も仮装して大騒ぎをしながら
街中を練り歩いている姿はどうみても
踊る阿呆というより踊らされている阿呆に
見えて仕方がありません

クリスマスの晩に酔って散財しケーキを
買って千鳥足で家路に向かっていた
昭和の親父さん達そのものを見るようで
私には哀れな姿に映ってしまいます

もともとハロウイン(万聖節)とは
古代ケルト人の宗教行事だったようで
米国経由ですっかり変わり今日の
日本の大騒ぎにまで至っているようです

秋の収穫、豊穣に感謝しての秋祭りならば
私も喜んで参加したいものですが
今は蒸かしたホクホクのかぼちゃを食べて、
かぼちゃを真似て遊んでみた柿を食べて
実りの秋に静かに私は感謝を捧げます


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年10月30日

0f4bcd53.jpg「 生前どんな生活を送り、
  どんなよいこと悪いことを
  したかは関係ない。
  宗教の有無とも関係なく、
  皆やすらかな顔をしているように
  見える。
  とくに死んだ直後の顔は、
  多くが半眼で、仏像そっくりな顔を
  している 」

(『人は死ぬとき何を思うのか』 青木新門の言葉より )


親鸞は、私たち人間の存在そのものが
悪であるということを「教行信証」の中で
繰り返し語っています
極悪非道な人間も聖人君子も異なることなく
人間の存在そのものが根源的に悪である
と親鸞は見通しているのです

これは見方によっては危険な思想にも
見えますが、だからこそ親鸞は
偉大な稀有な思想家だと私は思います

納棺師として無数の人々の死に直面した
青木新門氏は親鸞が説いた教えを
死の実相を見つめながらはっきりと
理解しているように私には思えます

青木氏の言葉は人は皆“等しい”ことを
いのちはすべて“等しい”ことを
高らかに謳っているようにも聞こえます


“遺体と真摯に向き合うなかで、
人は死の瞬間、すべての業(ごう)や、
怨嗟(えんさ)から解き放たれ、
すべてを許し、あらゆることに感謝するのだ”

とも青木さんは語っていますがこれは
すべての人に“等しく”約束された
浄土が用意されているということでしょう

それならば生きている間私たちは安心して
好き放題やりたい放題をやればよいのか?

これは、
私たちに突きつけられた難しい問いで
私たち一人一人が命がけで真摯に
自問自答しなければならない問いです


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年10月29日

3edd4a55.jpg「女は三界に家なし」
「貞女は屏風に見(まみ)えず」
「 直(じか)に冠を被(かぶ)らず 」
「 おでんに靴を履かず 」


古今亭志ん生絶頂期の「風呂敷」(1955年)を
久しぶりに聴きなおしました

無駄の全くない台詞、練りに練られたクスグリ
飄々とした語り口、落語ってやっぱり
志ん生だよなあとほのぼのと笑い
登場人物の顔まで見えて最後は大笑いして
しまいました

志ん生はどのようにしてくすぐりを
考え出すのだろうかと私は気になります

いま、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」
が放映されていますが志ん生を真似て
私もひとつ作ってみました

「 杉樽はオークにおよばざるがごとし 」

ウィスキーは杉樽ではなくてオーク樽で
作ったものでなきゃという意味です

ああ、やっぱり私には難しすぎます


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで

追記:

釈迦に説法ですが、志ん生がくすぐりに
使っていたもとのことわざは以下の通りです


「 女三界(さんがい)に家なし 」
「 貞女は両夫(りょうふ)に見(まみ)えず 」
「 李下(りか)に冠を正さず 」
「 瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず 」


2014年10月28日

940b8b93.jpg「 海老で鯛を釣る 」

ではありません

「 鯛で海老を釣る 」

です

旅先の駅前にあった商店街をぶらぶらと
歩いていたとき、店なのか民家なのか
分からない黒壁に貼られているビラを
見つけ思わずカメラにおさめてしまいました

海老で鯛ということわざはおなじみで
生身の人間らしい小賢しい思惑や欲が
透けて見えて微笑ましいですが、
鯛で海老をという表現にはそれがない
愚かにみえて上等な遊び心があり
仙人のように悠然としている

実に深い意味合いがあるなと、ときどき
この不思議な“ことわざ”を
思い出しては私は独り感心しています


今日も一日
みんな
笑って
微笑んで


2014年10月27日

8e289a92.jpg瀬川原平さんが77歳で死去

というニュースが今日流れてきました

赤瀬川さんにはいろんなことを教えてもらったなあ

路上観察の達人でもあった赤瀬川さんの
作品はどれも愛情たっぷりでユニークで
可笑しくてしかもまったく新しい視点を
提示してくれるものが数多くありました

港区の高級住宅で見つけた
「 燃えないゴミは(金)だけです 」
という張り紙に反応したり(金は黄金!)

「 貧乏って金持ちにはない
  生活のディテールがあるから面白い 」
と貧乏礼讃をしたり

iPadの話題からはそんなものを聴いてるより
ぼんやりする時間のほうがずっと大切で

「 雨だれが二つ一緒になると、
  急にピュッと落ちるんだよね。
  そういうの見ると面白かったもんね 」

というような懐かしい話に展開していったり

心に残る文章や作品とともにあの穏やかな
微笑みを私は忘れません

ご冥福を心からお祈り申し上げます

合掌


今日も一日
みんな?
笑って
微笑んで

追記:

いま手元にある本から印象に残ったくだりを
ひとつだけ引用しておきます

「 最近の「癒し」という言葉の流行が
  どうも真に迫らないのは、
  人間が癒されることばかりを
  考えているからだろう。
  癒されたとか、勇気をもらったとか、
  受身のことばかりを考えている。
  それは人間、物をもらうのは嬉しいことだが、
  神様からもらおうと思っちゃいけない。
  そういうギブアンドテイクで祈るのは、
  少々違うことだと思う。
  たしかに西洋の契約の社会では
  そうなのかもしれないが、
  日本の七福神を見ていてつくづく違うものを
  感じた。
  神に癒されるのではない。
  神々を癒しているのだ。
  人間が、神様も大変ですねと、
  癒してさし上げている。」

(『大和魂』「神様を癒してさし上げる」147~148頁より )

日頃“癒される”という言葉をあちこちで
嫌というほど耳にして独り苦々しく
思っていた私はこの一節を読んで
思わず快哉を叫んだものでした